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2010年3月31日水曜日

空気を読むな、本を読め。(子飼弾)

第一章 本を読め。人生は変わる
第二章 本を読め。答えは見つかる
第三章 「手」で読め。そして「脳」で読め
第四章 本を読んだら、「自分」を読め
第五章 本は安く買え。そして高く飛べ
第六章 エロ本も読め。創造力を養え
第七章 マンガを読めば「世界」がわかる


要するにクソ本(笑)
ハウツー本の振りをしてその実ただの独り言だったりする。
まぁ、弾さんのいつもの書き方だけれども。

各章のタイトルのつけ方がセンスないなぁと思うのは
多分この人本は読むけど詩は書かないんだろうなぁと思ったり。
まあ、オタクだからね、仕方ないね。

と、抽象的に批判してても特に意味はないんで本の感想とか。
(ついったーで弾さんに見せられない感想だわぁと思いながら)

内容としては弾さんの体験談と本に対する情熱を書き綴った本なので
論理的な説得力は置いておくとしても、読みやすいのは
ワンフレーズでぶった切る(弾言とも呼ぶ) 弾さんならではの表現。
初読みで1時間かからないぐらい。付属の弾さんのオススメ本とレビュー全部合わせても。

話は飛んでコーヒーの師匠の話。
ペーパーでコーヒーを淹れる時は
「ここまで淹れる」というラインまではガンガンお湯を注ぐ
そしてラインに達したらドリッパー一杯にお湯が残っていても
さっとドリッパーを引き抜き、後は捨てる。
理由は、ドリッパーの中身を全部入れてしまうと豆本来の苦味と違う苦味が出てしまうから。
一般的な感覚からすると、
逆にドリッパーに一杯お湯が入っているものを捨てるのがもったいないと考えがちだけど
コーヒーを味わうという意味では、豆を無駄にする上記の方法の方が勿体無いということ。

弾さんの時間の使い方(空気を読むな)も言いたいことは同じだと思っていて
サビ残や、テレビのダラダラ見などは時間の無駄。
そんなことするぐらいならもっと有益なことをする時間に当てろということ。
まあ、弾さんの場合は本だけど、それに限らなくてもいいかな。
絵がうまくなることに価値を見出す人なら絵を描く練習をすればいいし
音楽を聴きたければ好きな音楽を探して、聴けばいいという感じ。

その上で、アウトプットもしろと。
絵だと練習してうまくなったり、描いたらWebにあげたりすることだと思うし
音楽なら好きな音楽の演奏(歌ったりも)したい、周りに広めたりできるし
というのを200数ページで書いてますよっと。

2009年11月11日水曜日

こころ、高野聖

どちらも一度高校生の頃に読んだのですが、特に高野聖、意味が分かりづらく内容全然覚えてませんでした。

両方iPhoneでリトライ。

こころの方は昔から意味がすっと頭に入って人間の業の深さをまざまざと焼き付けられました。
前半の部分は全部導入部分だと思っているのであんまりよく読んでは居ませんが、
先生の手紙、その内容は一気に集中して読みましたね。
明治の文豪の作品ですが、K、そして先生がその年齢で感じたこと、考えていたこと
それは現代人と無縁ではなく、むしろ人々はよりその深遠に向かっていると感じます。
つまるところ、人は何のために生きるのか。そして迷い、何にすがればいいのか、それは裏切られるのか。
生きるために人は人を裏切るのか。
人は裏切るために生きているのか。
その果てにあるものとは…?


打って変わって高野聖。
泉鏡花の独特な表現技法により幻想的な世界が広がります。
要はこれ、和風サキュバスだよねと読みながら思いました。
無理に現代語化すると情景がさっぱり想像できません。
旧文語体の方がよほどすんなり頭に入ってきます。
リア充乙とか言ってる人、妖女に注意ですよ(藁

2009年11月9日月曜日

断言を読んで

弾言は、このリンクのiPhoneアプリで読みました。
200円ぐらいだったかな?

文章が簡潔で、リズムがあって読みやすく、中にグラフも登場するのですっと頭に内容が入ってきます。
なんていうんだろうね、こういうインターネットの影響を受けて洗練された文章って一言一言に力こもっていて余計なものが入ってないんですよね。
文学作品のような冗長性はありませんがビジネス書としては問題なし。

単行本として読んだ訳じゃないのでエッセンスが詰まって余計にそう感じるのかも知れませんが。
自分という存在の価値をどう高めるのか、そのためには何が必要なのか
それの答えは書いていませんが、そのための参考となる手続きが書かれています。
著者のオンザエッジ時代の話も読めて楽しめます。
暇つぶしにでもどうぞ。

2009年1月5日月曜日

ゴールデンスランバーを読んだ

ゴールデンスランバー

伊坂氏の小説はIf(仮定)としてのフィクションではなく、simulation(擬似体験)としてのフィクションである。

このブログが好きという奇特な方がいれば、の話であるが、
伊坂氏の小説を好きになるのではないか。
特にこのゴールデンスランバーという小説の主人公たる青柳雅春がおかれている立場
それこそ私が日頃何気なく綴る過去に縛られた感情を代弁しているかのように思える。
最も、私自身は傍観者であり、彼は行動を強いられる主人公であるわけだが。

著作の時点で大なり小なり作者(筆者)としての志向性を含むメッセージを文章内で発信するものであるが、
殊、氏の小説(私個人として魔王、そしてこのゴールデンスランバーの2作を読んだ)
においては強い政治的志向性を含むメッセージが多分に含まれている。

氏の2作に置ける共通点としては、「国家権力がその威力を用いて国民の権利を侵害しようとしている」という制約の元、「その社会で暮らす主人公に何らかの特異を持たせ」
「主人公を読者一人一人に対するアジテーター」として氏としての見解を述べている。

もちろん小説の登場人物という都合上、彼にも個としてのキャラクター性は十分に持ち合わせてはいるが、
彼が上記制約の元、その場で迫られている対応の決定は常に合理的であり、氏の主張を満足させるためにあるのみならず、
我々がもし彼の立場であるならば、(程度の差こそあれ)同様の選択を行うことが予想されるからだ。
もっとも、物語である以上ご都合主義的な要素が多く含まれてはいるが。
(結果として、現実には彼ほど鮮やかに物語の終焉を迎えることは相当難しい)

氏の小説は一般にミステリーに分類される
(西尾維新(の代理としての語り部)曰く、ミステリーとはマイナーなものであり、メジャーになった時点でそれはミステリーとは呼ばないと主張するが)
氏の小説のテーマは先ほど挙げた政治的シミュレーションと親族・友人(含む恋人)間における愛情とがある。
それは「得体不明の冷徹なる権力者集団(作中においてそれが一度でも『国家』とは明言していない)」とそれに抗う「人間味溢れた被害者」の対立を鮮明にするためと思われる。
氏の物語はそれらを各所に散りばめ、伏線という「点」と「点」を「線」にし、最終的には濃厚に絡める手腕は見事というより他にない。
しかし、我々は氏の書を読むときには考えなければならない。
「もし、それが明日(自らの体験しうる近未来)の自分のことであったならば…」と。

誉めてるのかけなしているのかよく分からない評価ですね。
まあ、あえて字数を重ねている時点でその、ほら、ね?というか。
アマゾンの評価が余りにも表面的なんでちょっと掘り下げてみました。
っていっても単にひねくれてみただけですけどね。