2008年7月30日水曜日

LOSTMAN

数年前のそれは全てが精神論であったが、私という存在についての質問への回答はそれで十分だった。
誰かが誰かの代わりで良かった時代の話。私の中にまだ私が居たころの話。

自分の価値が否定された。
それはよくある受験失敗で、ただ単にふてくされただけのことだと思った。
人生の全部はその頂点であるそこは、学徒にとって集大成の意味合いさえあった。
私は破れた。しかし、居場所が失われたわけではない、何の根拠もなくそう思っていた。

心の在処。

ふとした瞬間に、そんなものは夢想と化す。現実には常に無力だ。
そう事実を突きつけられた私が見た世界は、とても空虚なものだった。
そこに存在しない何かを常に捜し求め、幻想の中で見つける。
目が覚めたときに思うのだ。
「幸せな時は終わったのだ」
と。

失った初めの頃はまだそれでもよかった。
喪失を悲しみが心で満たしてくれた。
人は常に変化する生き物である。
数刻前の自分さえ、自分ではないとも思える。
何かを得られる者は幸いかな。
自ら求めることを辞めた者には何らの得る機会はなく
悲しみさえも、いずれは昇華する。

呼吸はしている。
熱も放出している。
しかし心はない。
欲望などはすでになく、己と呼べた器は既に瓦解している。
そんな状態を、果たして生きていると呼べるのだろか?

そして、愚かな私はそこでようやく思い至るのだ。
なるほど、私は総てを失ったのだと。
それを認めるまでに途した期間は、今にして思えばさして長いとは言えない。
だが、当時の私にとっては恒久にも等しい時を孤独に、無為に過ごしていたのだろう。
人とは、精神的な存在である。
その事実を認める、認めざるに関わらず、人はいずれ人を求める。
それを放棄した瞬間、人は永遠の旅人になれるのだろうか?

今でも、虚無は虚無のままで、私の心を密かに占有する。
それによって失われた感情がいくつもあることに気づくのだ。
痛みなどはない。
それを感じる心は死んでいるのだから。
誰にも届かない悲鳴をいつもあげている自分に気づいた自分いた。
その自分は、気づかない振りをして見過ごした。
そんな自分を見つめる、私がいることに気づいた。
私は何も想わず、ただそれを見つめていた。

―  傍 観 者  ―

何を成すわけでもなく、何かを獲得するわけでもない。
即物的な興行をただ見、情欲に生きる彼らを遠くから眺めている。
俯瞰ですらない。
彼らの為に行動することがないからだ。
私は、私の新たな役目を知った。
誰かが見つけてくれたわけではないが。
私が失った何かを、彼らは持っているのだろうか?
彼らを見つめ、その情景を記録する。
それが、ここという存在。

0 件のコメント: