数年前のそれは全てが精神論であったが、私という存在についての質問への回答はそれで十分だった。
誰かが誰かの代わりで良かった時代の話。私の中にまだ私が居たころの話。
自分の価値が否定された。
それはよくある受験失敗で、ただ単にふてくされただけのことだと思った。
人生の全部はその頂点であるそこは、学徒にとって集大成の意味合いさえあった。
私は破れた。しかし、居場所が失われたわけではない、何の根拠もなくそう思っていた。
心の在処。
ふとした瞬間に、そんなものは夢想と化す。現実には常に無力だ。
そう事実を突きつけられた私が見た世界は、とても空虚なものだった。
そこに存在しない何かを常に捜し求め、幻想の中で見つける。
目が覚めたときに思うのだ。
「幸せな時は終わったのだ」
と。
失った初めの頃はまだそれでもよかった。
喪失を悲しみが心で満たしてくれた。
人は常に変化する生き物である。
数刻前の自分さえ、自分ではないとも思える。
何かを得られる者は幸いかな。
自ら求めることを辞めた者には何らの得る機会はなく
悲しみさえも、いずれは昇華する。
呼吸はしている。
熱も放出している。
しかし心はない。
欲望などはすでになく、己と呼べた器は既に瓦解している。
そんな状態を、果たして生きていると呼べるのだろか?
そして、愚かな私はそこでようやく思い至るのだ。
なるほど、私は総てを失ったのだと。
それを認めるまでに途した期間は、今にして思えばさして長いとは言えない。
だが、当時の私にとっては恒久にも等しい時を孤独に、無為に過ごしていたのだろう。
人とは、精神的な存在である。
その事実を認める、認めざるに関わらず、人はいずれ人を求める。
それを放棄した瞬間、人は永遠の旅人になれるのだろうか?
今でも、虚無は虚無のままで、私の心を密かに占有する。
それによって失われた感情がいくつもあることに気づくのだ。
痛みなどはない。
それを感じる心は死んでいるのだから。
誰にも届かない悲鳴をいつもあげている自分に気づいた自分いた。
その自分は、気づかない振りをして見過ごした。
そんな自分を見つめる、私がいることに気づいた。
私は何も想わず、ただそれを見つめていた。
― 傍 観 者 ―
何を成すわけでもなく、何かを獲得するわけでもない。
即物的な興行をただ見、情欲に生きる彼らを遠くから眺めている。
俯瞰ですらない。
彼らの為に行動することがないからだ。
私は、私の新たな役目を知った。
誰かが見つけてくれたわけではないが。
私が失った何かを、彼らは持っているのだろうか?
彼らを見つめ、その情景を記録する。
それが、ここという存在。
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