2008年12月9日火曜日

誰が為に

インドでのテロはインド特有の様々な問題が絡みあった事件である。
テロとは離れ、近年のインドを少し経済の目覚ましい成長面でとらえてみると、
カースト制度という身分制度からの脱却、
経済的平等への強い欲求があった事は想像に難くない。
(以下人権問題に倫理を持つ方は読み飛ばし願いたい。(かなり過激な表現ありますし、書いたからといってどうとなるものでもないですしね。))

命とは平等なものなのか?
私はこの問いに対して否定する。
人は他人との差を往々にして気にする生物であるからだ。
封建社会においては身分それ自体が命の価値そのものであった。
その後産業革命等諸々、紆余曲折を経て機会の平等を勝ち得た。
結果人はそれぞれ選択した生き方をするようになり『生涯年収』という概念が生まれた。
この意味において資本主義とは命の価値を「いくら稼いだか」によって他人との差別化をはかる。
その意味において欧米や日本などいわゆる先進国の人間と、
インドや中国の僻地やアフリカなどの後進国の人間では、
現実として先進国の国民の方が尊い命を持つというわけだ。

では『平等』を掲げた社会主義はどうなのかと言えば、
国家が平等という言葉でオブラートに包んではいるが、
『国』と『国民』を明確に分離することで、
結局は為政者がもつ者ともたざる者を生み出したのだ。
これが命の価値と直接関係してくる。

私は『ボランティア』という言葉、あるいはその概念に吐き気を覚える。
募金をする、奉仕活動をする、ある意味では富める者が
貧しい者への価値の再分配にあたるのだが、
そこにあるのは「自己の優位」あってのもの、
言い換えれば偽善が見え透いているからだ。

無論、行為自体は立派だとは思うし、
自衛隊の地雷除去は自らの命をかけてさえやることには感動さえ覚える。
私が最も嫌悪しているのは、偽善をそれと考えもしないことだ。
自分のしていることは結局なんなのか、
その結果どうなるのかについての認識が全く欠落していることだ。



募金しました。

「目的は何ですか?彼らの笑顔がみたいからですか?
それとも単に、その境遇が可哀想だからですか?」


答えによっては、求める見返りが全く異なる。
真に平和(命の平等)を願うのと、
暗に「自分がその境遇に陥ったら同等の『行為』を強いる」ことは、
行為、結果が同じでも動機が全く別物だ。
後者は弱者を少なかれ意識し、自分の優位を確認し、弱者の弱みに付け込むのだ。

それを身勝手な偽善でなければ何と呼ぶのか。


まあ、そんなこと書いてる自分の独善にはもっと嫌悪しているんですけどね。

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