2009年1月3日土曜日

最後に一言言えるのならば・・・

近年マスコミ等によるコミュニケーションの不足が問題とされるが
そもそもコミュニケーションの土台となる「縁」は切れやすいものである。

家族、近隣住民という物理的に近いコミュニティ(以後、これらの概念を「縁者」とする)
の場合はあまり意識することがないが、
コミュニケーションとはツールを介して行う意思の通達である。
縁者とのコミュニケーションについては、それを維持するために
努力するものではなく、必要不可欠なものであるから
ツールを意識する必要がない点で別格ではあるが、
結局は縁者以外のコミュニケーションをとる時と変わりはない。

古来、文字や紙が登場する前においては
遠くの集落の人とコミュニケーションを取るために
自分の気持ちを込めた石を旅人に托し、
受け取った相手は送り主の状態をその石で持って確認していた。
手紙というシステムが発明された時点より、
それらの行為は文字によって気持ちを伝えるというように移り変わっていった。
現在では手紙から携帯電話がコミュニケーションのための最大のツールに変わったと考える。

これらツールの使用により遠方の相手ともコミュニケーションを取れるようになった。
縁者とは直接話せるので意識しづらいことではあるが
『ツールを使用する』というのは本人の意思による
自己の表現の手段であり、その意味においてコミュニケーションは
「主体的」であるといえる。

これを意味するところは、コミュニケーションをとるかどうかは
自分の意思により決定できるということだ。
言い換えれば「コミュニケーションは拒絶できる」のだ。
コミュニケーションの拒絶は本人の絶対的権利であり
自ら縁を断つ気になればその通りにできる。
(無論、相手方は心配するであろうが、
コミュニケーションを断たれている以上本人に対して影響しえない)

縁が切れる代表的なものは
高校や大学等でそんなに親しい仲でない学生とは
卒業を通じて疎遠になる
という事象があげられる。
ここから、縁を持続するためには絶え間ない努力(コミュニケーションの継続)
が必要となるのではないか?
ということが考えられる。

縁を持続する(コミュニケーションをとる)際に
一定の相手には一つのツールに依存しているように思われる。
携帯のメールや電話、インターネットでの掲示板やインスタントメッセンジャーといった
それぞれ、「この人とはこのツール」というように
固定されたツールでのコミュニケーションを図っていることが殆どではないか。

「この人とはもっと親しい関係を築いておきたい」
そう考える際に最も有効な手段は複数のツールで連絡をとれるようにしておくことが望ましい。
理由は2つだ。
ひとつは何らかの理由により自分の意思が相手に届かないことある。
インターネットであれば断線していたり、携帯であれば故障していたりする時がこれにあたる。
もうひとつは、ひとつのツールについてコミュニケーションの拒絶をされた場合である。

前者であればいずれ関係はおのずと復活する可能性が高いが
後者の場合、1つのツールであれば、一度の拒絶により永遠に縁が断たれる可能性すらある。
どうしても縁を繋ぎ直したい場合は、拒絶されていないツールで相手の意向を確かめたり、関係を修復する努力を行う余地が残されている。

このように、コミュニケーションとは「相手とつながっていたい」
(自己表現することで、本人と相手が相互に意思の疎通を図る)ことの現れであり、
そのためには縁を結びつづける努力をすることに他ならない。
それはいつの時代も変わらない(変わるのはツール側である)
縁を切るのは自分からツールの使用をやめればいいからである。
そうすれば、相手も自分に対してコミュニケーションをやめるからだ。


多分4時半現在、まだ勉強が終わってないから頭が沸いたような文章書いてます。
きっとそのせいですヨ。
てか、勉強に集中してないからずるずる続いて終わんないんだろうな
とは思うんですけどね。
ひとつのことに集中できない性質なんですよ。
色々考えてないと前に進めないんですよ。
多分きっと。
という言い訳。
弱音吐いてる暇があれば勉強しろという反面教師。

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