2009年1月5日月曜日

ゴールデンスランバーを読んだ

ゴールデンスランバー

伊坂氏の小説はIf(仮定)としてのフィクションではなく、simulation(擬似体験)としてのフィクションである。

このブログが好きという奇特な方がいれば、の話であるが、
伊坂氏の小説を好きになるのではないか。
特にこのゴールデンスランバーという小説の主人公たる青柳雅春がおかれている立場
それこそ私が日頃何気なく綴る過去に縛られた感情を代弁しているかのように思える。
最も、私自身は傍観者であり、彼は行動を強いられる主人公であるわけだが。

著作の時点で大なり小なり作者(筆者)としての志向性を含むメッセージを文章内で発信するものであるが、
殊、氏の小説(私個人として魔王、そしてこのゴールデンスランバーの2作を読んだ)
においては強い政治的志向性を含むメッセージが多分に含まれている。

氏の2作に置ける共通点としては、「国家権力がその威力を用いて国民の権利を侵害しようとしている」という制約の元、「その社会で暮らす主人公に何らかの特異を持たせ」
「主人公を読者一人一人に対するアジテーター」として氏としての見解を述べている。

もちろん小説の登場人物という都合上、彼にも個としてのキャラクター性は十分に持ち合わせてはいるが、
彼が上記制約の元、その場で迫られている対応の決定は常に合理的であり、氏の主張を満足させるためにあるのみならず、
我々がもし彼の立場であるならば、(程度の差こそあれ)同様の選択を行うことが予想されるからだ。
もっとも、物語である以上ご都合主義的な要素が多く含まれてはいるが。
(結果として、現実には彼ほど鮮やかに物語の終焉を迎えることは相当難しい)

氏の小説は一般にミステリーに分類される
(西尾維新(の代理としての語り部)曰く、ミステリーとはマイナーなものであり、メジャーになった時点でそれはミステリーとは呼ばないと主張するが)
氏の小説のテーマは先ほど挙げた政治的シミュレーションと親族・友人(含む恋人)間における愛情とがある。
それは「得体不明の冷徹なる権力者集団(作中においてそれが一度でも『国家』とは明言していない)」とそれに抗う「人間味溢れた被害者」の対立を鮮明にするためと思われる。
氏の物語はそれらを各所に散りばめ、伏線という「点」と「点」を「線」にし、最終的には濃厚に絡める手腕は見事というより他にない。
しかし、我々は氏の書を読むときには考えなければならない。
「もし、それが明日(自らの体験しうる近未来)の自分のことであったならば…」と。

誉めてるのかけなしているのかよく分からない評価ですね。
まあ、あえて字数を重ねている時点でその、ほら、ね?というか。
アマゾンの評価が余りにも表面的なんでちょっと掘り下げてみました。
っていっても単にひねくれてみただけですけどね。

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