2009年2月26日木曜日

廻る廻るムーランルージュ

突然ですが。

次期政権について
「一度違う政党に政権を担わせてみてその実力を見ればいいじゃないか」
という人がいる。

冗談じゃない。
政権をもつ与党が変わるということの意味はそんなに軽いものではない。
一時的な民意の過熱が歴史にどんな影を落としたのか、その事実が全く欠け落ちている。
今の日本において、昭和のような、あるいは明治のような時代の変革期にない
とすれば二大政党制になりつつある現在(二大政党制とはその性質上お互いの政策が似通ってくるという特徴がある)
与党が変わったところでそんな大事は起こらないのではないか、という楽観論も主張されうる

しかし、よく考えてみてほしい。
私たちは、与党の何を知っていますか?
あるいは最大野党の一体何を知っていますか?
現在のマスコミによる政治報道は政治そのものの何を報道しているのでしょうか?

この手の話は自分が保守的な考え方か、あるいは革新的な考え方かといった問題に聞こえるかもしれない。
この手の問題はミランダとクレデンダのそれである。
人は何を持って政策を決定するのか。
人々にとって何よりもわかりやすいのは象徴化である。
それに成功した人物として記憶に新しいのは小泉元首相である。
ここでは彼の功罪についてはともかくとして、
人々を政治に巻き込んだという点においては評価できる。

しかしその手法はあくまで「ミランダ」的であり、
郵政民営化という象徴の是非を大衆に問うたものである。
与党や野党の政策の内容に触れて投票した者がどれほどいるのか?
最大の問題は、それらについて自ら疑問を持ち、自分の目で、足で、頭脳で積極的に
かつ1日の活動のうちの大半をそれらについて理解するより他に術がないことだ。
現在の日本において、それができる人というのはまさに政治家を置いて他にいない。
この状態はトートロジーというしかなく、唯単に荒唐無稽な話である。

トーマス=ジェファーソンによると
「“新聞のない政府”と“政府のない新聞”のどちらかを選べと言われたら、私は迷わず後者を選択するであろう。」
共に両極端ではあるが新聞のない政府とは言語統制のある政治であり、後者はアナーキーでありながらも情報は存在する(選択可能な)社会という。
これはジャーナリズムの重要性を示す名言である。
高度に専門的であり、政治的な情報について、政治家のみがそれにアクセスできるのであれば
それはマスコミが存在していないということではないか。
人々が象徴というミランダから理性によって政策を判断するクレデンダへと移行するためには
まさにマスコミという存在の価値が問われるというのは
あまりに理想主義めいた言葉に過ぎないのだろうか。

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