2009年3月10日火曜日

dmp

こっちなら本音ぶちまけていいよね?

いつもの咳が出てきた。
肺の奥から生気が出て行き、代わりに黒いものが取り込まれていく感覚。
ここまでくれば間違いない。
私は死ぬまでこの病と闘っていかねばならないのか。

興りは、精神の死だった。
立ち上がる気力さえ起きず、ただ寝床に突っ伏したまま
体の先端から生きながらにして腐り堕ちて行く感覚。
確かにあの時私は死んでいたのだろう。
侵食される肉体に、抵抗するでもなく、ただあるがまま。
このままハゲタカにその肉体を啄ばまれようと抗うこともできないのではないか。
そう思えた。
されど精神は無限のものなのだろう。
自らの力で立ち上がり、再び世界へと挑戦する。
それはもちろん、何人もの人の助力があって初めて蘇生が成功するのだろう。

やがて限界を知らず跳躍する精神は、身体との軋轢を生む。
そう、今度は体が意志についてこれなくなっていた。
その現象には頭に気づいていた。
それを無視した。
どんな顛末をたどるのか、そんなことは頭で理解していた。
でもやめなかった。
心が死ぬことの闇を理解していたから。
光と闇の両方を行き来していた私だから
なおさら歩みを辞めるわけにはいかなかった。
結局、それにどれ程の価値があったのだろう。
所詮は自己本位の自己満足。
気づいていた。
わかっていたのだ。
世界はすでに満たされている。
個の結末など、その前には何の意味もないと。
闇が教えてくれていた。
光は、歩むことができる。
されど、いづれは闇に飲まれると。
だが、軌跡は残る。
それが人の生きる意味なのだと。
光は反論し、なるほど、内なる身には確かにその通りだった。
私は生きていたのだ。
苦痛を抱き、汚濁に塗れ、そして嫌悪された。
光は連鎖する。影響を免れ得ない。
それをつなぐ事こそ、生きる意味なのだ。
現状を破戒する。そして現状を再構築する。
そのために、生きたのだと。

そして私の肉体は今朽ちつつある。
それは精神とは何の関係もなく、ただカタチあるものとして
終わりを迎えようとするのであろう。
この身にいくら時間が残されているのか
それを知る術はいまだかつて存在しない。
不調和が混沌が支配する世界なのだ。
それ自体に抵抗する気はない。
死ぬべくして死ぬ。
結局望みはそれなのだ。
そのとき、自分は果たして満足しているのかと。
何を恐れ、何を後悔し、そして果たして自分は何者になったのかと。
ここで力尽きるのならば
それは本望なのか。
おそらくその瞬間になったとき、それら凡てはどうでもいい。
ただ、在ろうとした事だけで満足なのだ。
自己完結している。
満ち足りたい。

されど地球は回る。
世界は常に満たされている。
それで十分。何も思い残すことはない。

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